人生に豊かさをもたらすのは"労働"でも"余暇"でもない。

働きたくない?

「人生ずっと寝て暮らしたいな」

飲み会で友人がぽつりと言った。そうすると次は別の友人が「わかるわー」と同調し、飲み会はその話でひと盛り上がりした。

久しぶりに聞いたな、と思った。高校生まではよく聞いた願望だけど、大学生になってからはほとんど聞かなくなっていた。大学生は実際に寝て暮らしているからだろうか。休みは長いし、授業も文系だからか少ないし、たしかに寝て暮らすことはできる。

僕のまわりの友人には、そんな大学生活に「退屈」を感じ、それと日々戦っている人たちがそこそこいた。彼らは「今日予定空いてね?」「暇だし昼から飲まね?」といった誘い文句を日々インスタグラムのストーリーズやLINEのグループなどに無差別投下していた。特に、コロナが広まった頃は授業もなく外出もできずで、皆とても暇を持て余したそうだ。当時のインスタは、手作りスイーツの写真や新品のギターを練習する姿、Stay Homeという文字で溢れていた。

でも、大学生活もあと半年という頃になり、就活を終えて内定式を迎えた今。「新卒」、「社会人」、そして「労働」の近づく足音がだんだん聞こえてくると、飲み会は「ずっと学生でいたい」「働きたくない」という話で盛り上がるようになる。

働きたくない。

心からそう言っているのかどうかは置いておいても、その言葉で場が盛り上がるということは、「労働」に対する抵抗感が大学生の共通認識としてあるのだと思う。

「何もしなくていい」って辛い

コロナ禍の話に戻ると、日々いろんなことに手を出し、もはやスケジュール帳を埋めることを目標にしてしまっていた僕も、ご多分に漏れず暇を持て余していた。ある友人とnote毎日投稿という目標を立ててなんとかごまかそうとしたが、それでも退屈を凌ぎきるまでには至らなかった。

そんな時ふと、「何もしなくていい」ってどうしようもなく辛いんだと気づいた時のことを思い出した。

小学生のころ、僕は3ヶ月に1度くらいの頻度で学校を休んでいた。特にいじめや辛いことがあったわけではないが、単純に授業を受けるのが面倒でサボっていたのだ。

親には仮病をつかった。そのころはいかに仮病を装うか研究したものだった。体温計の結果を病院に連れていかれない程度の微熱に抑える方法を編み出し、リアルな咳をするため意識的な口呼吸で喉を痛めつけ、頭が痛くてフラフラするふりの練習までしていた。

学校を休むことが決まり、親が家を出ると、午前中のうちは好きなだけゲームをして漫画を読んで。心ゆくまで好きなことをした。でも、そんな日に限って「心ゆく」のにそれほど時間はかからないのだった。

昼頃には学校をサボった罪悪感がわき、みんなに置いていかれているような気もしてきて、夕方ごろにはひとり家の中で寂しい気持ちになっていた。母親が帰ってきた頃には涙で枕がべちゃべちゃなんてこともあった。ただの風邪だと思っていた我が子が号泣しているんだから、母としても困惑したことだろう。

そんなことがあっても、またすぐに学校が面倒になりサボりを繰り返すのだけど、サボったことを最後まで後悔しなかった日はなかった。

苦いコーヒーと甘いクッキーの関係

コロナ禍で僕は「何もしなくていい」日々に飽き飽きし、「しなければいけないこと」に追われる日々が恋しくなった。大学のレポート、バイト、サークルの担当、家事。数々の「しなければいけないこと」に追われていて、それを必死に一つ一つこなす日々。そして、その「しなければいけないこと」の合間に、友だちと遊んだり趣味にいそしんだりする日々は本当に楽しかったことを思い出した。

この、「しなければいけないこと」とその合間にある休息や娯楽は、コーヒーとクッキーの関係に似ているなと思う。

僕はチョコレートとかクッキーとか洋菓子がとても好きで、ブログを書いたり作業をしたりする時はいつも手元にお菓子を置いている。一度食べ始めるとどんどん食べてしまうのだが、同じお菓子をずっと食べているとだんだん味、特に甘さを感じなくなってくる。

しかし、そこにコーヒーを挟むと、急激に甘くおいしく感じる。逆にコーヒーの苦味や風味もいっそう強く味わい深く感じられる。

「余暇(=休んだり遊んだり、好きなことをすること)」と「労働(=しなければいけないこと)」もこの関係に似ている。互いが互いを引き立て合う。両方あることで日々が豊かになっていく。

そして、それは「余暇」のために「労働」したり、「労働」のために「余暇」を楽しむということではない気がする。コーヒーだけ、もしくはクッキーだけを楽しんで、もう一方は補助的な役割だとは、僕は思っていない。コーヒーもクッキーも楽しんでいる。もっというと、その2つの組み合わせやその関係、あるいは「甘さ」と「苦さ」が交互にくるダイナミズムを楽しんでいるんだと思う。それと同じで、「余暇」や「労働」それ自体の楽しみとはまた別に、「余暇」と「労働」の間の関係やその往来も生活の豊かさにつながっているのではないか、なんてことを思ったりしているのだ。

この考え方のヒントとなった書籍から引用する。

仕事”だけ”が人生だと言っているのではない。しかし、適切な量の労働は満足できる人生に不可欠の要素なのだ。

労働はなくてはならないものである。 労働は解放である。 適切に行われる労働は喜びである。(出典

僕は4月から就職し、「労働」を始める。それがとても楽しみだ。「働きたくない」という友人の気持ちもわからないでもないが、僕は辛いことよりも楽しい、面白い、豊かな生活が待っているように思う。

大学生にとっての「労働」は学業・研究だろうけど、それは自分の「余暇」と関係を持たせるのが少し難しかった。(まったく関係がないわけではなかったけれど)

でも社会人になれば「労働」と「余暇」をもっと混ぜ合わせることができるようになると思う。その二つを組み合わせて、もっと複雑でユニークな、僕だけの生活を作っていける気がする。

僕は、それがとても楽しみだ。

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