「作業レベルでできること」が増えているかを気にしている

ステージの上で

高校生の頃の印象深い思い出があります。高3の文化祭で、全校生徒の前で漫才をしたときの話です。

私自身は人前に立つタイプではないのですが、相方に誘われて2人で漫才をすることになりました。相方は1,2年生のときも同じステージで芸を披露しており、2年生でピン芸人をやったときの台本を私が担当していたので、「じゃあ次は2人でやるか」という話になったのでした。

さすがに全校生徒を盛り下げるわけにはいかないので、すごく必死に練習しました。文化祭の準備期間中は、誰もいない教室で何度も何度もネタ合わせをする毎日でした。ときには一部の先生や生徒にフィードバックをもらいながら、繰り返しネタを修正しました。ネタ合わせをするたびに余計な箇所が削られたり、ハマったアドリブが台本に組み込まれたりしていきました。最初は台本通りに進めるのがやっとの状態でしたが、次第に呼吸するようにセリフを言えるようになっていきました。

迎えた本番、客席にはおよそ1000人の人が座っていました。1000人の前で漫才をするなんてどれほど緊張するのだろうかと思っていたのですが、驚いたことに私はほとんど緊張しませんでした。直前ギリギリまで何度も通したネタをそのままやるだけで、私としては漫才という名の「作業」をやっている感覚でした。楽しいとか楽しくないとかは別に無くて(もちろん多少の高揚感はありましたが)、「ただその通りにやるだけだ」と思っていました。

「作業」中、漫才をしている自分とは別にそれを俯瞰している自分がいて、お客さんの反応に合わせてアドリブを入れることができたほどでした。なんとなく、自分自身とその場の空気をコントロールできている感覚がありました。

考えることを減らす

いまになって、この「作業している感覚でできる」という体験が、すごく尊いことだったのではないかと思っています。なぜなら、これは熟達の証にほかならないからです。

私は以前、ITエンジニアとしてアルバイトをしていたのですが、そのときの学習態度を少し後悔しています。

ITエンジニアの界隈では「常に新しい技術にキャッチアップしていなければならない」といった風潮があり(少なくとも私はそう感じており)、私も次々と新しい技術を触るようにしていました。国内外で話題になっているフレームワークやライブラリを見つけると、とりあえずこねくり回してみる感じです。

新しい技術を触っているとステップアップしているような感覚があり、すごく楽しいと感じていました。自分で新しい技術の解説記事を書いてみたこともあります。

しかし、しばらくしてふと自分の技術力を振り返ってみると、すごく心許ないように感じました。「なんか、基本的なことをあまり理解していないな」と。通信の仕組みやプログラミング言語の機能など、「エンジニアなら知ってて当たり前」というような基礎事項をしっかりと勉強していなかったんです。

最新の技術トレンドのことはまあまあしゃべれるのに、基本的なことができない。これってすごく怖いことだなと思いました。

それどころか、こねくりまわした技術についても一度や二度触った程度なので、「雰囲気はつかめてる、久しぶりに触るやつもググればわかる」という感じでした。それじゃあ何も学習していないのと大差ありません。私が自信をもって「できる」と思えることは本当に限られていました。

もちろんITエンジニアのお仕事は、ググりながら前に進めていって構いません。むしろそうすることがほとんどだと思います。

しかし、運転教本を読みながら運転はできないですし、漫才の台本を持ちながらいい漫才はできません。基本的なことは「作業」くらいの気持ちでできないと、いい仕事はできないのです。

なぜ「作業」くらいの気持ちじゃないといい仕事ができないのか?それは余計なことを考えているとその分アウトプットの品質が落ちるからです。

元Googleエンジニアのmayahさんも「考えることを減らすために、基本的なことには習熟しておかなくてはいけない」というようなことを自身のブログでおっしゃっています。

言語を極めよ

これも、考えることを減らすことにほかなりません。言語はある程度極めて、息を吸うように記述できるぐらいでなければなりません。わざわざあれはどうかくんだっけ? と言語の機能を探すようでは、そちらに気を取られるばかりで必要なことを考える時間に支障がでるからです。(出典

「作業」というと、どこかつまらなそうな印象があります。つまらないことをやっていてもステップアップにはつながらない気がしてきます。

しかし、頭をつかわずにできるからこそ、より高度なことに頭を割り当てることができます。「作業」の傍らで漫才をしている自分を俯瞰できていたように。

むしろ一回や二回できたからといって、刺激を求めてどんどん次のステップに進んでいこうとすると、長い目で見たときにできることが少なくなっているんじゃないでしょうか。エンジニアをしていたときの私がそうでした。

より高度なことを成し遂げるためには、それよりレベルの低いことを頭を使わなくてもできるようにしておかなくてはいけません。

だから私は、「作業レベルでできること」が増えているかを気にしています。

知識と理解

「作業レベルでできる」ようにするためには、基本的に反復練習がものを言うでしょう。「頭を使わない」というのは「身体が覚えている」ということですから、身体が覚えるまで繰り返せばいいのです。

ただ、単にそれだけだと、「間違ったクセ」みたいなものを身に着けてしまう危険性があるのと、他の応用的な動作に対応できなくなる可能性があります。そこで私は、単純な反復練習を超えて「あること」を心がけています。

それは、「制度的知識だけではなく理論的理解にまで踏み込んで学習する」ということです。

この「制度的知識・理論的理解」という少し難しい言葉は、東大の経済学者である神取道宏先生の教科書からいただきました。

本当に社会の仕組みをよりよく理解するためには、制度的知識と理論的理解の両方をしっかり身につける必要がある(中略)。このうち制度的知識は、社会に出てから必要に応じて自分で身につけることができますが、理論的理解の方はそうはいきません。ミクロ経済学の教科書が重きをおくのは、社会に出てから一人で身につけることができない、先人の知恵=理論的理解を授けることなのです。(出典)

例えば「ツールの動かし方」は制度的知識でしょう。それに対して「なぜそのツールは動いているのか、どういう原理で動いているのか」を学ぶのは理論的理解と言えます。ツールの動かし方だけわかっていても一定の仕事はできますが、応用が効くのは理論的理解があってこそでしょう。理論的理解には時間とエネルギーを要しますが、本当の熟達のためには避けて通れません。

私は制度的知識と理論的理解の違いを、「道順を覚えること」と「地図を手に入れること」の違いと理解しています。制度的知識が持つある種の「ショートカット」的な便利さは大いに価値がある一方で、理論的理解まで踏み込んだときの自由は計り知れない、といったところでしょうか。

地図を手に入れたときのように、頭の中に俯瞰のイメージができたとき、論理的な思考を使わずに感覚的に「作業」ができるようになるのだと思います。

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