実は「手段を目的化」しちゃった方が楽なのかもしれない
「手段でしかないものを目的にしてしまったら本末転倒だ」?
受験生時代の妙に忘れられない思い出があります。
高校3年生の夏、学校主催の勉強合宿が行われました。クラスの仲間たちと旅館に泊まり、1週間の間、1日10時間勉強をするというものです。先生に質問もできましたが、基本的には各自で勉強内容を決めて自習をするという形式でした。
その合宿は、自習がそれほど好きではなかった僕にとってかなり苦痛でした。10時間も机に座り、数学や英語の問題を解き続けるなんて考えられない。1日目は長時間の学習に慣れず、まったく集中できませんでした。
そこで2日目から取り組むことにしたのが、世界史の年表作りです。教科書を読み、資料集を漁り、B4サイズの大きなノートに年表を作る。ひたすら出来事や人物の名前を書きこみ、時にはイメージしやすいように図や絵を描いたりして、色とりどりの自分だけの世界史年表を作りこみました。世界史が好きな僕にとってはとても楽しい時間でした。
しかし、3日目になり年表も完成にさしかかろうかという時、僕の机のそばを通った担任の先生が僕のノートを覗き込み、「そればかりやるんじゃない」と年表作りを咎めました。
「この合宿の目的は受験に合格することで、年表作りはその手段の一つだろう?手段でしかないものを目的にしてしまったら本末転倒だ」
たしかに、先生の言う通りだと思いました。年表は時間がかかる割にすぐに成績に結びつくものではありません。それに、僕の世界史の成績は特に悪くなかったし、それよりも英語など他の教科を勉強すべき状況でした。僕はなくなく未完成の年表をしまい、問題集に取り組むことにしました。その後もあまり集中できないまま、合宿は終わりました。
「手段でしかないものを目的にしてしまったら本末転倒だ」
当時は正しいと思えた先生の言葉。
しかし、最近ある出来事をきっかけに、本当にそうだろうかと少し疑問がわいてきたのです。
セックスは究極の「手段の目的化」
友人のKが「この前嬉しいことがあってさ〜」とにやにやしながら僕に話してきた時のことです。
あいみょんのファンである彼は、ある女性とあいみょんのどの曲が好きかという話をしたといいます。その時、女性があげた曲が「ふたりの世界」でした。
この曲の冒頭の歌詞は以下のようなものです。
いってきますのキス おかえりなさいのハグ おやすみなさいのキス まだ眠たくないのセックス
ー ふたりの世界/あいみょん
セックス。以前、昼間の渋谷スクランブル交差点でこの言葉を叫んでいる人を見かけたことがありますが、世間一般には人前で、特に異性の前で口にしにくい言葉でしょう。
そんな言葉が入った曲を女性がポンと出してくれたことに、Kはなんだか嬉しくなったのだそうです。
誤解しないでほしいのですが、この話はKの幼稚さや下品さを暴露するために書いているのではありません。むしろ僕は、Kの気持ちに共感をおぼえました。
K(と、おそらくその女性)がその曲を気に入っているのは、その歌詞が”大人のエモい恋愛”を感じさせるからだと思います。たしかに、そんなエモさを異性と共感しあえる状況は、他の人には言えない秘密を共有している感じ、あるいは自分がそれを楽しめるくらいの大人になれた感じがして、なんだか嬉しい気分になります。
なんというか、それまで下品なものでしかなかった”セックス”という行為を、エモいものとして、上品に扱えている感じがするのです。
この「セックスを上品に扱う」ってどういうことなのかなと考えた時、少し強引ですが、セックスが目的ではなく手段であることに気付いたということなのかもなと思いました。人間にとって、セックスは種の繁栄に必要な行為です。つまり子孫を残すという目的に対する手段、となります。
しかし、日常の中でそのことを意識する人は少ないでしょう。
以前話題になった『What Every Man Thinks About Apart from Sex(邦題:すべての男がSEX以外に考えていること)』という本をご存じでしょうか。非常に興味をそそる題名に惹かれ、「すべての女性に捧げる。」という帯がついたその本を開くと、誰もが衝撃を抱きます。何も書かれていないのです。めくれどめくれど、挿絵はおろか、文字すらも何もない。ただ真っ白のページが続くのみの本。
さすがにこの本は一つのエンターテインメントとして楽しむべきだと思いますが、とはいえまったくの嘘でもありません。人間、特に男性にとってセックスはそれ自体が目的になっていることが多々あります。
僕はまだ妊活というものをしたことがありませんが、妊活のためにセックスすると全然楽しくなくて、そこからセックスレスに陥る、ということはよくあることなのだそうです。むしろ目的を意識したことで手段を行使するのが難しくなった、というのは面白いと思いました。
勉強合宿の再考
少し長くなりましたが、ここまで考えて、僕は勉強合宿のことを思い出しました。
あの時先生が言ったのは手段を目的化するのはよくないということだったのだと思います。世界史の年表を作ることは、受験で合格するという目的を達成するための手段です。なのに、年表の完成を目的にしてしまえば、真の目的である受験合格に必要のないことをしてしまったり、本当にやるべきことを見失ったりするかもしれない。
課題を終わらせること、プリントの空欄を埋めること、そういった目の前のことではなく、合格という「目的」を目指しなさい。多くの生徒はそれに納得していたし、僕もそれを聞いて「手段の目的化」には気をつけようと思いました。
勉強以外のことでも「手段の目的化」はよくないよなと思ってきました。実際、ビジネスの世界でもそれは多くの人が陥りがちなミスとして、それを防ぐ方法が考えられています。
でもKとの話を聞いて、人間という種自体が「手段の目的化」によって、実は繁栄という真の目的を達成していることに気付きました。男性は本能としてセックスを求めます。それは人類にとっては種の繁栄という目的に対する手段ですが、男性にとってはそれ自体が目的となっています。
そこではまさに「手段の目的化」が起こっているのですが、それでも人類は未だ種を存続させているのです。むしろ「手段の目的化」によって人類は存続しているといってもいいかもしれません。
「手段の目的化」で今を楽しみつつ、目的に向かう
このことから僕は「手段の目的化」って別に悪いことじゃないのかもしれないなと思いました。変に遠くの目的を意識して今が楽しくなくなるくらいなら、手段を目的化して楽しく手段に取り組んで、その結果目的を達成できることもあるんじゃないでしょうか。
「手段の目的化」がいけないっていうのも、目的から外れすぎるといけないだけで、手段を突き詰めてくことは特別悪いことじゃないと思うんですよね。手段が目的化していることに自覚的でありながら、ときたま目的に向かっているかな?とチューニングすればOKなのではないでしょうか。
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