「ファミマの目と鼻の先にファミマ」を不自然だと思えるか?
同じ会社コンビニが近くにあるのはなぜ?
「ファミマの目と鼻の先にファミマ」みたいな光景に憶えはないだろうか?特に都会で、同じ会社のコンビニが不自然なくらい近くに出店していることがある。
『コンビニの近くに、同じコンビニ』の今まで見た中で、一番店同士が近いパターン。
— まつじ (@matsujun5213) September 19, 2021
中身はほぼ同じだった。これ意味あるの? pic.twitter.com/mRgBZshBKK
普通に考えたら店舗同士でお客さんを食い合うので良くはなさそうだ。「店舗数ランキング1位でも目指してるの?」とか思ってしまう。どうしてこんなことになっているのだろう。
実はこの歪な光景は、「ライバル店に出店されること」を想定すると途端に妥当性を帯びてくる。簡単なゲームの木を書いて分析してみよう。
いま、コンビニFの店舗の近くにちょうどコンビニが出店できるような空きテナントができたとする。
Fは現状で6の利得を得ているが、ライバル店Sにそこへの出店を許すと、お客が取られて利得が3になってしまう。代わりにFが2店舗目を自分で出店すると、維持費などがかさばってすこし利得が下がる代わりに、お客さんは今まで通り独り占めできる。 Sに出店を許した場合の利得3と、Fが自分で出店した場合の利得5を比べると、「後者のほうがましなので出店しよう」となる。
こうしてあの光景ができあがる。同じ会社コンビニが近くにあるのは、ひとつの戦略の結果であった。
その「正しさ」は誰目線?
「同じコンビニの並び」は、たしかに企業の目線で見たときに「利益最大化」という名目のもとで一定の正しさがありそうだ。「ライバル店が来るのを見越して先に自分が入っておく」というのはなるほどである。
しかし、目線を変えると「やっぱり不自然じゃない?」という気もしてくる。
例えば消費者目線で見たとき、同じコンビニが2つ並んでて嬉しいことってそうそうない。だって商品同じだし。借りれるトイレが増えるのは、少し嬉しいだろうか。
あるいは街全体の目線で見たとき。コンビニばかりの景観でいいのかな?地元で小商いをする人が使えたかもしれない場所を、大手のコンビニに入ってもらっていいのかな?などなど、色んな疑問が思いつく。
一般に経済学では、個々人が自分の利益を追求したときに全体もうまくいくとは限らないとされている。有名な「囚人のジレンマ」は代表的な例だろう。それぞれの利益を追求すると、お互いに足を引っ張り合ってしまう。
ひとりひとりの目線での「正しさ」と、全体目線での「正しさ」は、しばしば異なる。このコンビニの例も、自分の利益を追求した結果「全体を眺めるとなんかイマイチ」になっているパターンの1つだと考えられる。
こういう話をするとすぐに「ビジネスの人は自分の利益の最大化に走るから、すぐに不道徳的になるんだよね」「ほら、ビジネスってゼロサムゲームじゃん?」とか言い出す人がいるのだが、そんなに単純な話でもない。
例えばコンビニの中の人が「国全体でみたときには、とにかく自社の売上を伸ばす方がいいんだ!なぜなら、売上はそれだけ国民に便利を届けることができたっていう証拠だからね!」と言っていたらどうだろう?それはある種、自分の利益だけではなく、消費者の利益、国全体の利益を考えていることにもなる。
実際、こんなむちゃくちゃな並びが成り立っているのは消費者がコンビニを利用しているからであって、消費者がコンビニを利用しているのはそこに便益を感じているからだ。
誰が「調停者」たるか?
「自分にとってもいい感じだし、全体で見てもいい感じ」を実現するのは難しい。「自分にとってはいい感じなんだけど、全体でみるとイマイチ」を判断するのが難しいからだ。ふつう、自分の利益はとりあえず欲しいものだから。
そこで、「調停者」が欲しくなる。自分の利益と全体の利益のバランスをいい感じに取り持ってくれる「調停者」が。なにかそれっぽいものを発明できないだろうか。
現実の世界で「調停者」としてよく言われるのは「みんなの話し合い」だ。話し合いによって、個々人の利益を尊重しながら、みんなでいい感じにしよう、ということ。
でも、考え方の異なる人たちが話し合いで合意するのは本当に難しい。話し合いの場を作らなきゃいけないだとか、そもそもまず信頼を築かなくちゃいけないだとか、色々コストがかかる。「裏切り」の可能性まで考えるとなおさらだ。
頭のいい人は、「個人の利益が全体の利益とうまく噛み合うような設計を考えよう!」と考えるかもしれない。例えば代表的なものとして、「種の繁栄のためにセックスを快感とする」みたいな。個はただセックスを求めてセックスをするが、全体で見たときにもその行為は理にかなっている。
これができたら最高なのかもしれないけれど、実際なかなか難しい話だ。そもそも「全体」がどこを指すのかにもよる。人間が繁栄しても地球全体で見るとあまり嬉しくないかもしれない。
いろいろ考えていくと、結局ひとりひとりの倫理観に委ねる余地が大きいのではないかと思ってしまう。「私」の目線と同時に「全体」の目線を持てるか。自分を思いやるのと同じくらい周りの人を思いやれるか。そんなキレイゴトでいいのかよ、って感じなのだけれど。
「全体の目線を持つ」というのは、すなわち「多角的な視点で自分を批判できるか」ということである。これは明らかに知性と地続きだ。もしも自分が「ファミマの目と鼻の先にファミマ」をやらかしていたときに、それを不自然だと思えるかどうかは、常に気にかけていきたい。
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