「ただの好き」と「研究したい」の違いをゼミの先生に訊いた
「好き」と「研究したい」の違い
卒論で書きたいことがピンときてなかった時期の話。ゼミの先生にこんなことを訊いたことがある。
「好きだなー」と思うことってたくさんあるんですけど、それと「研究したいなー」っていう気持ちはどう違いますか?
彼女はしばらく時間を空けてこう答えてくれた。
「ただ好きなだけ」だと、人の書いたものを読むなどで満たされます。他方「研究する」とは調べて書くことです。ですから、自分で調べて書きたいと思うものが「研究したいと思うこと」だと思います。
進路との関係でいえば、趣味の世界が「好き」で、自分の仕事とするのが「研究すること」だと思います。
本人としてはそこまで納得の行く答えではなかったようだが、私はシンプルで的を射た答えだと思った。
産みの楽しみ
私は経済学部の学生であったこともあって、彼女の返答を聞いたときすぐに「消費者として満足するのか、生産者として満足するのかの違いか」と解釈した。
生産者には「産みの苦しみ」がある。例えば私はITエンジニアをやっているのでわかるのだが、ソフトウェアを「作る」のは「使い慣れる」ことよりずっとずーーーーっと大変だ。ソフトウェアの規模や種類にもよるが、大体は苦行と言って差し支えない。世の中には便利なソフトウェアがたくさんあるのだから、作るのなんかやめて「使う専門」になった方がよほどいいと何回思ったかわからない。
だが、生産者には「産みの楽しみ」もある。私は駆け出しの頃に「世界のナベアツカウンター」というアプリを作ったことがある。1ずつカウントアップしていって、3の倍数と3の付く数字のときにナベアツがアホになるというだけのいわゆるクソアプリだ。使う人は鼻で笑うようなアプリだが、作者の私はニヤニヤニヤニヤできる。作った人にとっては、過程も含めて1000倍増しで面白いのだ。
しかし、「産みの楽しみ」にたどり着くまでには大きな溝がある。私は何人もの人にプログラミングを教えてきたが、「難しい、よくわからない」「エラーが出て嫌になった」といってほとんどの人がその溝を前にして引き返してしまった。これはきっと、絵を描くのとか音楽を演るのとかでもそうだろう。「産みの苦しみの溝」は人を選ぶ。
たしかに産みの苦しみには「一度慣れてしまえば」という側面もある。ただ、今の自分を越えようと思うと必ず新しい苦しみがつきまとう。その暗い溝を見て、手前側にとどまるのあり方が「ただの好き/趣味/消費的な満足」で、跳び越えようとするあり方が「研究したい/仕事/生産的な満足」なのだろう。
そうせずにはいられない
「やりたいことの見つけ方」として、「やらずにはいられないことを探せ」という指南を目にしたことがある。家計簿をつけずにはいられない、落ち込んでいる人を見ると励まさずにはいられない、なにかと計画をせずにはいられない、などなど…。
それは「他人よりも産みの苦しみの閾値が低い分野」であるから、そういうのを仕事にすると長く続くだろう、ということだそうだ。これも的を射ているなと思う。
ITエンジニアをしていると「自動化せずにはいられない」人種によく出会う。ちょっとでも面倒な単純作業があると、プログラムを書いて自動化せずにはいられな人たちだ。
そういう人たちは決まって「あー、5分の作業を自動化するのに3時間かかったわー笑」とか言いながらニヤニヤニヤニヤしている。産みの楽しみのことしか頭にないので、産みの苦しみのことは忘れている。
そう考えると、「研究したい」も「ただの好き」と同じく「自然に出てくる感情」で、ただ少し、前のめりな感じがするのだろう。
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