自分の発想が窮屈なだけだった

大ダイバーシティ時代

世はまさに、ジェンダーの大ダイバーシティ時代。

目の前にいる人がどのような性別を好きになり、また自分をどのような性別とみなしているか、当然一目ではわからない。また、どんな言動がセクハラ、あるいは差別になるかわからない。

さまざまな場合を想定し、想像力を発揮し、極力誰も傷つけない発言・振る舞いをすることが求められる。今まで以上に日常生活や飲み会での発言に気を遣う世の中になったと思う。

もちろんそれが悪いことだと言いたいわけではない。知らず知らずのうちに誰かを傷つけたり、そのアイデンティティを暗に否定したりするような発言はこれまでにたくさんあった。それらをなくすために、ある程度の慎重さは必要だし、そこから生じる窮屈さも社会で生きていく以上受け入れるべきだと思う。

「多様性を認めるには我慢が必要だ」

以前まで、僕はそう思っていた。

恋バナをしたい

そんな僕は、多様性を認める風潮によって、正直やりにくくなったコミュニケーションが増えたなとも思っていた。

僕は、いわゆるジェンダーマイノリティの人が、自分が思っている以上に周りにいることを、大学生になってから知った。それから、飲み会などで(見た目上)男性の友人に向かって「彼女いるの?」などと聞きづらくなった。「僕が男性とみなしている人」が本当に男性なのか、あるいは女性を好きになる人なのかわからないからだ。何も知らなかった高校生までの僕は「男性であれば女性を好きになる」という前提で友人と会話をしていたが、その前提がなくなってしまった。

先日、内定先の同期と食事に行く機会があった。その同期とはそれが初対面。そこでは自己紹介や趣味、残りの大学生活で何をするかなどを話したが、なんとも盛り上がらない。

正直、表面的な情報ばかりで、その人自身と会話をしている感じがしなかった。少しひねくれているけれど、その人と会話してるのが僕じゃなくてもいいし、僕と会話してるのがその人じゃなくてもいいなと思えてきたのだ。とはいえ、初対面なのだから当たり前なのかもしれないとそのときは思った。

伝家の宝刀。その名も「恋バナ」

初対面でも盛り上がり、すぐにその人のパーソナリティが見え、その人自身と話しているように感じられる話題もある。

恋バナだ。

まだまだ年頃の僕らは恋愛がどうだ、女の子がどうだという話をすると簡単に盛り上がってしまう。人の恋愛話を聞くと、よりその人の個性が見えるし、”秘密”を共有している感じもして仲良くなりやすい。

というわけで僕は初対面の人と仲良くなるのに恋バナをつかうことがよくあるのだが、上述のように最近はそういったコミュニケーションがとりにくくなった。「彼女いる?」と、うかつに聞けなくなったからだ。

だからこそ、初対面の同期との会話でも恋バナを始めにくかった。そして、僕はそんな現代社会に「多様性って、なんか窮屈だよな」と思ってしまっていた。

発想の転換

ある日、そのことをある友人に話してみた。すると、友人は意外な答えを僕にくれた。

「あー、わかる。でも俺はそういう時、好きな人いる?って聞くようにしてるよ」

なるほど。たしかに「好きな人いる?」という質問であれば、その人がどういう性自認(自分の性別をどう認識しているか)であっても、どういう性的指向(どのような性別の人を性的に好きになるか)であっても、不快な気持ちにはならないだろう。

その人にとって言いにくいことであったり、アセクシュアル(他者に対して性的欲求(や恋愛感情)を抱かないセクシュアリティのこと)の人であったりしても、「いない」と言えばすむ。

僕はそれを聞いて、友人の柔軟な発想に感心した。

ただそれだけでなく、「窮屈なのは多様性を認めることそれ自体ではなく、自分の発想なんじゃないか?」とも思えてきた。

多様性を認めながらでもできる話はたくさんあるはずだ。もし会話の相手がジェンダーマイノリティの人であっても、性に対する考え方が違うだけで他の部分で共通点を見つけ盛り上がることもできるだろう。

「多様性」が叫ばれる今を「昔はなんでも言えたのに、、、」「窮屈な世の中になったな」と嘆く人を見て、僕も「そうかも」と思っていましたが、それは違った。むしろ多様な人々を認めることは、自分の発想を広げるチャンスなのだと思う。

多様性を認めることは窮屈に耐えることではなく、発想を広げること、想像を膨らませること。

友人のように柔軟な発想で、誰も傷つけないコミュニケーションを日々探していきたいものだ。

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